決済つきの予約システムが3,940円〜/月

湯前城跡

湯前城陸軍陣地跡

熊本県球磨郡湯前町にある湯前城跡をご紹介。
相良家の二大支城の1つです。
先の大戦末期には本土決戦のための陣地も構築されました。

目次


湯前城の概要

 湯前城は、築城年代は不祥ですが、戦国時代には存在していました。城の規模は、人吉球磨を統治していた相良氏の本城:人吉城と同じくらいです。ですから、人吉球磨の他の城と比べ、格段に大きな城となっています。重要な城だったことがうかがえます。
 湯前城は、土塁、切岸、堀切、竪堀、虎口などで守りを固めた「土の城」です。北の球磨川と南の都川にはさまれた古城台地の西端に築かれました。南北の2つの川が天然の外堀となり、台地の南北は急峻な崖となっており、西には二重の堀切(≒横堀)が掘られ、東には雛壇上の帯曲輪が築かれ、守りを固めています。まさに要害堅固な丘城です。
 東には平城があり、ここは湯前城主の東直政が居住していたとも伝えられています。主郭の南には南城があり、守りを固めていました。今はお寺などがあります。水ノ手には渡し場もありました。御仮屋は人吉藩主の滞在所で、城ノ尾は湯前城の西端です。
 現在、わかっている城主で、いちばん古いのは、東直政(三河守)です。相良氏の家臣ですが、相良氏の家臣で城主となっていたのは各地の地頭でした。ですから、東直政は湯前城周辺の領主だったと思われます。東直政の湯前城に関する最古の記載は、1552年の城内における若宮神社の再興です。
 当時の相良家当主:相良義陽が年少だったとき、相良家3奉行のうち2人(東長兄と丸目頼美)が対立しました。このとき東直政は、相良義陽の母親に呼ばれ、対立のとりなしを命じられています。このことから東直政が有力な武将だったと推測されます。
 東長兄は東直政の親戚で、丸目頼美は東直政の姻戚でした。東直政は結果的に調停に失敗し、丸目頼美と共に湯前城を拠点として、相良義陽を後ろ盾とした東長兄と戦うことになります。
 東直政には、椎葉の那須氏や、米良の米良氏など、日向方面の有力氏族が加勢します。が、米良氏は、娘の婚姻の件で那須氏に怨みを抱いていたことから、途中で裏切って相良氏を加勢することにしました。
 結果として、東直政は獺野原の戦いで戦死し、湯前城も落城しました。その後は、東一族のうち東能登が城主となり、最終的には相良氏の2大支城の1つとされ、そして江戸時代の一国一城令による廃城をむかえます。
 廃城後は普門寺となり、明治となって焼失してからは、市房山神宮の里宮が建立されましたが、全体的に荒れていきました。しかし、その遺構の大半は今でも残っており、往時の威容をしのぶことができます。遺構の一部は、散策路をめぐることで見ることができます。湯前城は、旧相良領内では最大級の「土の城」ですので、見ごたえがあるのではないでしょうか。

湯前城近隣の城跡と比較

カシミールの3Dを使って、同時代の城跡の主郭を同縮尺で比較してみると、湯前城の主郭は相良家の本城である人吉城と同規模であることがわかります。湯前城と大畑城は2大支城ですが、湯前城の方が圧倒的に広くなっています。

湯前城の地図


湯前城の地図
(航空写真ベース)


市房山神宮と湯前城の関連年表


湯前村古城跡図(熊本県立図書館蔵)

明治初期に描かれた絵図です。
湯前城は球磨川と都川に挟まれた台地の西端に構築されていました。

『球磨絵図』にみる普門寺周辺
(人吉市教育委員会所蔵)

湯前城は江戸時代、廃城になったあと、普門寺が置かれました。
絵図にはその普門寺の様子が描かれています。

湯前城の遺構
(その一部をご紹介)

永岡の虎口
湯前城の北側、永岡集落にある大王神社裏からの登城口にある虎口です。主郭の出入口を守っています。
櫓台跡
湯前城跡の最高所にある方形の台地です。どのような櫓が建っていたかは不明ですが、形状から櫓台の跡と推測されます。
野首の虎口
西側の台地、二重の堀切の脇にある登城路を登った先にある虎口です。櫓台の脇にあります。ここから下ったところを「門前」と言います。
小見出し
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
水ノ手の切通
水ノ手の渡し場と城内をつなぐ道の途中にある切通です。写真の右手の先に二重の竪堀があります。
主郭下の小石垣
主郭の西側下にある石垣です。高さは低いのですが、湯前城跡には所々に同じような石垣があります。写真の場所は草木に埋もれ、見学できません。
水ノ手の平虎口
水ノ手の切通から登ってくると、この平虎口に到達します。左右は、だいぶ浸食されていますが、切岸になっています。
小見出し
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。
帯曲輪の出入口
新道から帯曲輪に入る里道です。帯曲輪と主郭とをつなぐ道はなく、独立した形になっています。
帯曲輪の様子
帯曲輪に入ると、切岸が段々になっていることがわかります。ただし、ほぼ未整備ですので、草木に埋もれたところが今は多いです。
主郭の西側切岸
帯曲輪の方向から主郭を見上げたところです。高い切岸がみてとれます。
小見出し
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。

かつて湯前城内にあった若宮神社

若宮神社は戦後すぐまで存続していましたが、「新道」建設のため廃社となりなした。
若宮神社のわきにあった「将軍廟」は現存しています。

将軍廟に祀られた東直政

将軍廟には湯前城主だった東直政が祀られたとのことです。

現在、将軍廟内に安置されている3柱の神像は阿蘇神社の神様であろうと推測されます。

将軍廟

現地では「将軍廟」の名は忘れられ、今は「若宮祠」と呼ばれたりしています。
市房山神宮里宮に残る調査記録に「将軍廟」が記載されています。

湯前城跡に散らばる陶片など

湯前城跡内には、写真のような陶器片の散らばっています。
写真上:薩摩の焼き物・江戸後期
写真中段右:球磨郡で焼いたもの又は芦北のもの・江戸後期
写真中段左:波佐見焼風・江戸中期
写真下:明治以降
 

湯前城陸軍陣地跡

第二次世界大戦の末期、湯前城跡は本土決戦のために野戦陣地として、野戦築城がなされました。それをここでは湯前城陸軍陣地と呼びます。

本土決戦への備え

地図出典『本土決戦準備<2>九州の防衛』(戦史叢書第57巻 )
 第二次世界大戦末期、南九州には3つの作戦がありました。
 い号作戦=宮崎方面に上陸してくる連合軍と戦う。
 ろ号作戦=大隅半島方面に上陸してくる連合軍と戦う。
 は号作戦=薩摩半島方面に上陸してくる連合軍と戦う。
 このうち人吉城跡と湯前城跡は、い号作戦における機動路上の兵站設備の場所とされ、陣地が構築されました。その陣地跡の遺構はいくつか今も残っています。

第二次世界大戦の末期に人吉球磨地方にいた陸軍部隊

【熊本師管区司令部】
 役割=物資備蓄のための簡易洞窟構築
 場所=人吉城跡周辺、湯前城跡周辺
【第57軍】
 役割=南九州の機動(補給)路の整備
 人吉平地の兵站設備=人吉・湯前
【第16方面軍 第206師団】
 役割=宮崎平地・大隅半島・薩摩半島に上陸した米軍に対処
 場所=人吉平地に駐屯
 ※湯前出身の風刺漫画家の那須良輔氏は県境付近で陣地構築に従事
【高射第4師団】 
 ・高射砲第132連隊 高射砲第11中隊(8cm高射砲・7cm高射砲)
  場所=人吉城跡の高台(原城町)付近
 ・高射砲第136連隊 高射砲第6中隊(7cm高射砲)
  場所=今の人吉球磨スマートIC付近
【特設第4機関砲隊】
 場所=相良藩願成寺駅の北東
【陸軍航空本部熊本出張所】
 人吉平地での担当=あさぎり町の陸軍人吉秘匿飛行場を建設
 1945年1月に建設が開始され、4月に使用できたようです。
【第6航空軍 第30戦闘飛行集団】
 熊本の陸軍航空部隊です。
※湯前城跡は明治期から陸軍の射撃場がありました。明治維新後、全国の城は陸軍の管轄となりましたから、その関係で湯前城跡も陸軍が使用したのかもしれませんね。

湯前城陸軍陣地跡の主な遺構

地下壕
湯前城跡の北側にある崖の下にあります。全部で10穴5基のコの字型の倉庫壕があり、高射砲弾なども格納していたそうです。
銃座跡
主郭跡には多くの円形くぼ地=銃座が掘られていました。その1つが本殿脇に残っています。
突撃口
西側台地方面に突撃するために土塁を削って構築されています。その手前に今は遥拝用の鳥居が建っています。
小見出し
ここをクリックして表示したいテキストを入力してください。テキストは「右寄せ」「中央寄せ」「左寄せ」といった整列方向、「太字」「斜体」「下線」「取り消し線」、「文字サイズ」「文字色」「文字の背景色」など細かく編集することができます。

本土決戦における湯前城の戦術的位置
(里宮=湯前城跡)


1947年の航空写真に見る銃座跡

国土地理院のサイトで閲覧できる1947年にアメリカ軍が空撮した写真には、湯前城跡の主郭(本丸)に複数の円形くぼ地が写っていることが確認できます。この円形くぼ地は銃座と推定されます。そのうちの1つが市房山神宮里宮の本殿脇にある銃座跡です。

円形くぼ地~砲座か、陥没か

湯前城跡の東の台地上には、円形くぼ地があります。地元では「地下水路が下にあるので陥没した」と言われていますが、くぼ地の下に水路はありませんし、底面も平らになっています。人吉城跡にあった砲座と規模が同じなので、おそらく高射砲のための砲座の跡と思われます。

参考
人吉城内及び湯前方面に於ける本土決戦関連遺跡群

若手研究家の岸野宣理氏の調査結果です。
人吉城跡に構築された陸軍陣地跡に関する地図情報です。

お知らせ

武士でつながる日台友好

湯前城跡は、地元からも見放されているマイナーな城跡ですが、台湾や鹿児島とも連携し、一人でも多くのお城ファンに知っていただけるよう、努力しております。

軍艦御城印

湯前城跡の軍艦御城印は、人吉城跡の軍艦御城印とあわせて、1つのデザインになっています。湯前城跡の軍艦御城印は市房山神宮里宮で、人吉城跡の軍艦御城印は相良護国神社で、それぞれ授与されます。令和6年1月1日から授与開始で、各1枚500円の予定です。
(ご注意:2枚の御城印は、印刷の都合でピタリと合わさらない場合もあります。)